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NO.5
  パイプをくゆらせながら、メガネの奥の目が光る…。報道・討論番組に出演している竹村健一
さんは、いかにもコワそうですよね。けれども、ぼくは竹村さんの屈託のない笑顔をいくつも見
てきました。
 初めてお会いしたのは今から十五、六年前のこと。ぼくが新聞のコラムに、「日本が世界に理
解されないのはハッキリとモノを言わないし、伝えないからだ」という趣旨で書いたのがきっか
けです。それを読んだ竹村さんが、ぼくらのトラブル対応電話相談の活動などを当時連載されて
いた週刊誌のコラムなどで取り上げてくれて、後日、お会いする機会が訪れました。
 「君の書いた通りだ。日本は自分の国のことを堂々と世界に伝えていかなければ、本当にダメ
になる」その目には、真剣さと憂いが映っていました。それから、およそ二年後の一九八九(平
成元)年十月、サンフランシスコ大地震が起きました。ぼくが中央大学の学生に呼びかけて賛同
した三十数人とともに被災地の援助活動をしてきた後には、「日本の若者にも、自立している人
は多いんだね。彼らの可能性は素晴らしい」と目を細め ていました。

いつだったか、竹村さんは「ぼくもケンたちが今しているようなことをやりたかった」という
ふうに言ったことを 覚えています湾岸戦争が九一年一月に始まり、サンフランシスコ大地 震の
さいの援助メンバーを軸に結成した日本緊急援助隊は、延べ約百二十人が現地入りして難民キャ
ンプなどで活動しました。その一人、当時、中央大学の学生だった竹友くんは、一年近く湾岸地
域に滞在しました。竹村さんは、竹友くんの活動にいつも関心をもち、エールを送り続けました。
  竹友くんが久しぶりに日本に帰ってきて間もなくの土曜の午後、竹村さんは彼とぼくらメンバ
ーの四、五人を都内の自宅に招きました。お宅に着くと、「おーっ、帰ってきたか」と大きな声
で、竹友くんたちを迎えてくれました。部屋にはカレーのにおいがしていました。 竹村さんは
「君たちが食べたかったもの、作っておいたよ。まあ、とにかく食べなさい」と、すぐにお皿に
盛りつけてくれました。 そのカレーは少し不思議な色をしていました。竹村さんが何時間もか
けて作ったと、あとで奥さんが教えてくれました。辛かったけど、すごくおいしかった。竹友く
んたちも、ぱくぱく食べていました。そのときの竹村さんのうれしそうな表情は、その前にも、
そのあとにも見たことのないものでした。
             
(助世夫 健)